主題: 「この宝をもっている私たち」
Uコリント4:7 (三浦真信牧師)
パウロはかつてキリスト教会を迫害していましたが、あるとき復活のキリストに直に出会い人生が180度変えられます。
迫害者から、キリストを伝える伝道者となりました。
パウロ自身はユダヤ人であり、しっかり律法を学び、またそれを厳格に守ろうとして生きてきた人です。
ですからキリストが救い主であることを伝えるキリストの弟子たちに反対し、人間の力で律法を完璧に行うことで神の救いを得ようとする律法主義を主張していました。
今までは自分の力(善い行い)により救いが得られると思っていましたが、キリストに出会って初めて、自分という存在はどこまでも不完全であり、神との間を隔てている罪があることを自覚します。
そしてその罪は、罪なき神の子キリストしか取り除くことはできないことがはっきり分ったのです。
きよい神の前では罪人に過ぎないことを認めて、キリストがその罪に代わって十字架で死なれ、三日目によみがえり、罪のとげである死に完全に勝利してくださったことを信じて、心が解放され喜びが湧き上がってきたのです。
パウロは地中海沿岸を中心に宣教し、その中でアテネに近いコリントの町でもキリストを信じる人たちが起こされ、そこに教会ができました。
パウロがコリントを去った後にもコリント教会は成長していきますが、同時に福音に反対して律法主義を強調する人々も入り込んできました。
彼らは、キリストの福音を語るパウロが使徒であることも否定し、人々を福音から引き離そうとしました。
陰でパウロを中傷しながら、コリント教会の人たちがパウロに疑いをもつようにし、パウロの語る福音を聞けなくなるようにと仕向けたのです。
「パウロは自己推薦して自分を使徒だと偽り、コリント教会を支配しようとしている」との非難の言葉を聞いたパウロは、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます」(5節)と断言しているのです。
またこの世界にまだ暗闇しかなかった時代に、神が「光があれ」とおっしゃると光ができたように(創世記1:3)、神は私たちの真っ暗な心の中に光を照らしてくださり、キリストの光を輝かせてくださいました(6節)。
キリストの光が差し込んで初めて、私たちは罪によって汚れている自分の心の暗闇に気づきます。
パウロは、キリストに出会わなければよみの底に落とされ滅びていたような自分を宣べ伝えるのではなく、「その死のどん底から救い出してくださったすばらしいキリストを私たちは宣べ伝えるのだ」と、キリストを語らずにはいられなかったのです。
<7節>
「私たちはこの宝を土の器の中に入れているのです」
この罪から救い出してくださるキリストは、「宝」です。
言語でこの文の最初に「私たちはもっています」という言葉があって、「もっている」ことが強調されています。
このキリストというすばらしい宝を、私たちは「もっている」のです。
今何をもっていなくても、何ができなくても、確かにこの宝を「もっている」のです。
この手紙が書かれた当時、このように土の器に金貨や銀貨を入れておく習慣があったようです。
ローマ帝国で戦いに勝利した将軍の凱旋パレードでは、その行列の後ろに、土器に銀貨を入れて持ち歩く人が続いたそうです。
パウロはその光景を思い浮かべながら、その土器が自分のように思われたのかもしれません。
自分という存在は、土の器であり、弱く脆いものだと思えたのでしょう。
パウロは、肉体的にも病気か何らかの弱さを抱えていましたし、精神的にもそれほどタフであったわけではありません。
ただ神のあわれみを受けたという事実だけが、パウロに勇気を与え、力と希望を与えていました(1節)。
自分自身のことを思うなら、いよいよいつ壊れるかわからない土の器でしかないのです。
パウロでなくても、私たちのからだは必ずいつかは朽ち果てますから、限りある器なのです。
金でも銀でもない、ただの土の器に過ぎないけれど、「私たちは確かにこの宝を持っている」のです。
この「キリストという宝を持っている」という事実が、私たちに力を与えるのです。
もともと人は土地のちりで形造られた存在です。
神がいのちの息を吹き込み、初めて生き物となりました(創世記2:7)。
ですからいずれはまた土地のちりに帰る存在です(創世記3:19)。
とてもはかない存在です。
そんなちり同様の私たちをも、神は宝のように大切な存在として扱ってくださるのです(申命記14:2、イザヤ43:4)。
神が私たちを宝のように見てくださっても、実際には私たちははかなく脆い土の器であることに変わりありません。
しかし私たちがもっているキリストという宝は、宝そのものなのです。
はかなくも脆くもない、すばらしい宝なのです。
このキリストは神の奥義であり、この方の内には知恵と知識の宝がすべて隠されているのです(コロサイ2:2〜3)。
神の子キリストを遣わし、キリストを通して罪の赦しと救いを与えることが神の奥義です。
この方を真に知ることが神のすばらしい奥義を知ることであり、この方の内に知恵と知識の宝がすべて隠されています。
キリストという宝を内に持っているということは、神の奥義をもっていることであり、人からは到底出てこない神の知恵と知識の宝を持っていることです。
ですから私自身は土の器でも構わないのです。
内にある宝がすばらしいのであって、自分が土の器であることがわかればわかるほど、内におられる宝のすばらしさが現れてくるのです。
「それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明かにされるためです」
ここの“測り知れない(ヒュペルボレー)力”とは、“普通の限界を超えた力”という意味でもあります。
並外れた偉大な力です。
その力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明かにされることがすばらしいことなのです。
パウロは、コリントの人たちに、自分の困難や弱さをこの手紙でも伝えてきました。
それについて批判する人たちもいました。
しかしパウロは、どこまでも自分たちは土の器に過ぎず、弱さを常に抱え、限界のある存在であることを強気で覆い隠すことはしませんでした。
それは内にいてくださるキリストの無限の力が明かになるためなのです。
クリスチャンだから弱味を見せず、立派な自分を見せようという生き方(自分を必死で金や銀の器に見せようとする生き方)は、結局内側の宝のすばらしさを覆い隠してしまうことになるのです。
その人の人間的な立派さを人に伝えるだけで、弱さのうちに完全に現れるキリストの力は覆い隠されてしまうのです。
直面している苦しみや悲しみを正直に神様に祈り、思いっきり弱音を吐いて甘えていけばいいのです。
また安心して出せる交わりの中で自分が土の器であることを伝えていくことで、測り知れない神の力が出てくることが周囲にも明らかになるのです。
どのような困難や弱さに直面していても大丈夫です。
なぜなら、「この宝を」もっている私たちだからです。
そこに測り知れない神の力が働いてくださるから大丈夫なのです。
その時には、その力が私たちのうちから出たものではなく、神の力以外の何ものでもないことが明らかになるのです。
このボロボロの土の器の中にいてくださるキリストの力であることが明白になるのです。
だから、パウロは「(土の器である)自分自身を宣べ伝えるのではなく、(宝なる)キリスト・イエスを宣べ伝えます」(5節)ということができたのです。
もしも自分自身について語るなら、どこまでも土の器であること、そんな私がキリストというすばらしい宝を持っていることを伝えるだけです。
自分が土の器であることを嘆くのではなく、むしろこの宝を内に持っている私たちであることを喜び、またその宝のすばらしさを伝えていきましょう。
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