(2010年9月)

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 9月26日
主題:  「この宝をもっている私たち」  
                Uコリント4:7 (三浦真信牧師)


 パウロはかつてキリスト教会を迫害していましたが、あるとき復活のキリストに直に出会い人生が180度変えられます。
迫害者から、キリストを伝える伝道者となりました。
パウロ自身はユダヤ人であり、しっかり律法を学び、またそれを厳格に守ろうとして生きてきた人です。
ですからキリストが救い主であることを伝えるキリストの弟子たちに反対し、人間の力で律法を完璧に行うことで神の救いを得ようとする律法主義を主張していました。
今までは自分の力(善い行い)により救いが得られると思っていましたが、キリストに出会って初めて、自分という存在はどこまでも不完全であり、神との間を隔てている罪があることを自覚します。
そしてその罪は、罪なき神の子キリストしか取り除くことはできないことがはっきり分ったのです。
きよい神の前では罪人に過ぎないことを認めて、キリストがその罪に代わって十字架で死なれ、三日目によみがえり、罪のとげである死に完全に勝利してくださったことを信じて、心が解放され喜びが湧き上がってきたのです。
 パウロは地中海沿岸を中心に宣教し、その中でアテネに近いコリントの町でもキリストを信じる人たちが起こされ、そこに教会ができました。
パウロがコリントを去った後にもコリント教会は成長していきますが、同時に福音に反対して律法主義を強調する人々も入り込んできました。
彼らは、キリストの福音を語るパウロが使徒であることも否定し、人々を福音から引き離そうとしました。
陰でパウロを中傷しながら、コリント教会の人たちがパウロに疑いをもつようにし、パウロの語る福音を聞けなくなるようにと仕向けたのです。
「パウロは自己推薦して自分を使徒だと偽り、コリント教会を支配しようとしている」との非難の言葉を聞いたパウロは、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます」(5節)と断言しているのです。
 またこの世界にまだ暗闇しかなかった時代に、神が「光があれ」とおっしゃると光ができたように(創世記1:3)、神は私たちの真っ暗な心の中に光を照らしてくださり、キリストの光を輝かせてくださいました(6節)。
キリストの光が差し込んで初めて、私たちは罪によって汚れている自分の心の暗闇に気づきます。
パウロは、キリストに出会わなければよみの底に落とされ滅びていたような自分を宣べ伝えるのではなく、「その死のどん底から救い出してくださったすばらしいキリストを私たちは宣べ伝えるのだ」と、キリストを語らずにはいられなかったのです。


<7節>
「私たちはこの宝を土の器の中に入れているのです」
この罪から救い出してくださるキリストは、「宝」です。
言語でこの文の最初に「私たちはもっています」という言葉があって、「もっている」ことが強調されています。
このキリストというすばらしい宝を、私たちは「もっている」のです。
今何をもっていなくても、何ができなくても、確かにこの宝を「もっている」のです。
 この手紙が書かれた当時、このように土の器に金貨や銀貨を入れておく習慣があったようです。
ローマ帝国で戦いに勝利した将軍の凱旋パレードでは、その行列の後ろに、土器に銀貨を入れて持ち歩く人が続いたそうです。
パウロはその光景を思い浮かべながら、その土器が自分のように思われたのかもしれません。
自分という存在は、土の器であり、弱く脆いものだと思えたのでしょう。
パウロは、肉体的にも病気か何らかの弱さを抱えていましたし、精神的にもそれほどタフであったわけではありません。
ただ神のあわれみを受けたという事実だけが、パウロに勇気を与え、力と希望を与えていました(1節)。
自分自身のことを思うなら、いよいよいつ壊れるかわからない土の器でしかないのです。
パウロでなくても、私たちのからだは必ずいつかは朽ち果てますから、限りある器なのです。
金でも銀でもない、ただの土の器に過ぎないけれど、「私たちは確かにこの宝を持っている」のです。
この「キリストという宝を持っている」という事実が、私たちに力を与えるのです。
 もともと人は土地のちりで形造られた存在です。
神がいのちの息を吹き込み、初めて生き物となりました(創世記2:7)。
ですからいずれはまた土地のちりに帰る存在です(創世記3:19)。
とてもはかない存在です。
そんなちり同様の私たちをも、神は宝のように大切な存在として扱ってくださるのです(申命記14:2、イザヤ43:4)。 
神が私たちを宝のように見てくださっても、実際には私たちははかなく脆い土の器であることに変わりありません。
しかし私たちがもっているキリストという宝は、宝そのものなのです。
はかなくも脆くもない、すばらしい宝なのです。
 このキリストは神の奥義であり、この方の内には知恵と知識の宝がすべて隠されているのです(コロサイ2:2〜3)。
神の子キリストを遣わし、キリストを通して罪の赦しと救いを与えることが神の奥義です。
この方を真に知ることが神のすばらしい奥義を知ることであり、この方の内に知恵と知識の宝がすべて隠されています。
キリストという宝を内に持っているということは、神の奥義をもっていることであり、人からは到底出てこない神の知恵と知識の宝を持っていることです。
ですから私自身は土の器でも構わないのです。
内にある宝がすばらしいのであって、自分が土の器であることがわかればわかるほど、内におられる宝のすばらしさが現れてくるのです。
「それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明かにされるためです」
 ここの“測り知れない(ヒュペルボレー)力”とは、“普通の限界を超えた力”という意味でもあります。
並外れた偉大な力です。
その力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明かにされることがすばらしいことなのです。
 パウロは、コリントの人たちに、自分の困難や弱さをこの手紙でも伝えてきました。
それについて批判する人たちもいました。
しかしパウロは、どこまでも自分たちは土の器に過ぎず、弱さを常に抱え、限界のある存在であることを強気で覆い隠すことはしませんでした。
それは内にいてくださるキリストの無限の力が明かになるためなのです。
クリスチャンだから弱味を見せず、立派な自分を見せようという生き方(自分を必死で金や銀の器に見せようとする生き方)は、結局内側の宝のすばらしさを覆い隠してしまうことになるのです。
その人の人間的な立派さを人に伝えるだけで、弱さのうちに完全に現れるキリストの力は覆い隠されてしまうのです。
直面している苦しみや悲しみを正直に神様に祈り、思いっきり弱音を吐いて甘えていけばいいのです。
また安心して出せる交わりの中で自分が土の器であることを伝えていくことで、測り知れない神の力が出てくることが周囲にも明らかになるのです。

 どのような困難や弱さに直面していても大丈夫です。
なぜなら、「この宝を」もっている私たちだからです。
そこに測り知れない神の力が働いてくださるから大丈夫なのです。
その時には、その力が私たちのうちから出たものではなく、神の力以外の何ものでもないことが明らかになるのです。
このボロボロの土の器の中にいてくださるキリストの力であることが明白になるのです。
 だから、パウロは「(土の器である)自分自身を宣べ伝えるのではなく、(宝なる)キリスト・イエスを宣べ伝えます」(5節)ということができたのです。
もしも自分自身について語るなら、どこまでも土の器であること、そんな私がキリストというすばらしい宝を持っていることを伝えるだけです。
自分が土の器であることを嘆くのではなく、むしろこの宝を内に持っている私たちであることを喜び、またその宝のすばらしさを伝えていきましょう。




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 9月19日
主題:  「地の深みから引き上げて下さる神」  
                詩篇71:15〜20 (三浦真信牧師)


この詩の作者と思われるダビデは、人生の中で何度も身近な者たちから裏切られたり、命を狙われる苦しみを経験しています。
それでも、彼にとって神は「若いころからの望み、信頼の的」でした(5節)。
神はダビデをあらゆる危機から救い出してくださいました。
それは「多くの人にとっては奇跡と思われた」(7節)ほどだったのです。
そのような神の力を何度も経験していながらも、「年老いた時も私を見放さないでください」(9節)と祈っています。
ダビデはこれまでも、「力の衰え果てた」(9節)経験をしてきました。
苦しみによって心が塞ぐと、からだにも影響を及ぼしたり、気力も奪われていきます。
そんな気力も体力も衰え果てる中でも、神はダビデを守り助けてくださいました。
そして今、年老いつつある時に、少しずつ身体も衰えて今までできたことができなくなったり、親しい人たちを失う機会が多くなり、ふと不安や寂しさが込み上げてくるときに、今まで以上に「これからも助けてください」と祈らずにはいられなかったのでしょう。
主は決して私たちを見捨てないと約束してくださっていますが(ヨハネ福音書14:18)、それでも弱くされるときに不安になって、思わず「私を見捨てないでください」という祈りをも神は受け入れてくださるのです。

<15節>
ダビデは、そのような老いていくことへの不安や寂しさを感じつつも、「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう」とうたいます。
現実には不安や寂しさはありながらも、神の救いを思うと嬉しくてそのことを語らずにはいられないのです。
ダビデは、人間関係における裏切り、だまし合い、争いで悩みましたが、自分の犯した罪によっても大きな苦しみを経験しました。
ですから、神の前に立つときには完全な義をもっておられる神が、こんな罪にまみれた自分をも救ってくださり、愛してくださるという恵みがありがたくて仕方なかったのでしょう。
この神の救いを思うと、感謝で黙ってはいられない、語り告げずにはいられないのです。
それほどにダビデを喜ばせている神の救いですが、それでも「私はその全部を知っておりませんが」と言っています。
神の救いの恵みはあまりにも大きくて、神のご愛はあまりにも深くて、一生かかってもすべては分らないのです。
神の救いに関しては、死ぬまで新しい発見があるのです。

<16節>
「あなたの大能のわざ」「あなたの義」「ただあなただけを」と、神への讃美に用いられる言葉です。
老後のこと、家族の将来のことなどで不安になったり、今直面している悩みは尽きませんが、その中で何を心に留めるべきかをはっきり確認しています。
どんなに悩んでも、不安になっても、どこに心の焦点を置くべきかがはっきりしているなら大丈夫です。
最終的に立ち返るべきところは、神ご自身であり、その大能のわざとみ救いなのです。
神を讃美し、礼拝する中で、私たちの心の焦点が常に切り替えられていくのです。
神礼拝は、悩みと苦しみの中からささげるものです。
神を礼拝する中で、見える事象に対する思い煩いから偉大な神のみこころへと心の向かう方向が変えられていくのです。

<17節>
若いころからダビデを導き教えてくださった神は、年を重ねた今もその「奇しいわざ」をダビデに見せてくださいます。
そのわざを、今は今のようにまた告げ知らせています。

<18節>
イスラエルの王として社会の一線で活躍していたダビデが、少しずつ働きから退いていく中で、社会の隅に追いやられるような寂しさを感じたり、ふと自分の存在価値を考えるときに、王としてしっかり国を治め、華々しく敵国に勝利をもたらした功績も、今となっては過去の栄光であって、何とも空しい存在に思えたことでしょう。
今までの立場や働きを徐々に失い、改めてこれからどのように生きていくのかを問いかけた時に、神はダビデに第2の人生における使命を与えられます。
それは、「神の力を次の世代に、神の大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせる」ということでした。
地上での生を終える最後の時まで、私たちにはすべきことがあります。
ダビデは、今までのように自分が表舞台で動くのではなく、次の世代や後から来た人たちに神の力を伝え、育てていくことを新しい使命として神から受け取っていきました。

<19節>
「あなたの義」は「あなたの救い」と同じような意味で使われています。
神の救いの大きさは、天にまで届くかのように計り知れず、そのために神がしてくださったことを思うと、「あなたは大いなることをなさいまいました」と叫ばないではいられなかったのでしょう。
他に比べうるもののない神の偉大さに感動しています。

<20節>
これまでの多くの苦しみと悩みが、神の御手の中の出来事として受け取られ、ダビデの中に傷として残ってはいません。
むしろその苦しみの中で大いなることを神がしてくださったことの方が心に留まっているので、苦しみ悩んだことさえも感謝に変えられています。
神は苦しみの中で死に果てたような者を、再び生かしてくださいました。
泥沼の中で苦しみ叫ぶ祈りに「身を傾けて」聞いてくださり、そこから引き上げてくださいました(40:1〜3)。
そしてその経験は、将来死を迎えた時に、地の深み(よみの底)からも主は引き上げてくださるという希望につながっています。
これまでも、苦しみによって衰え果て、地の深みにいるようなところから、神は引き上げてくださいました。
その神は、人間にとって最大の「地の深み」である死後のよみからも引き上げてくださり、天の御国に入れてくださるという確信につながっているのです(16:10〜11)。
苦しみの中で、神の力を体験したことは、死んだ後にまで大いなる希望を与えるのです。
キリストの神を信じる者には、死の直前までこのような将来と希望があるのです。




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 9月12日
主題:  「心のおおいを取り除く光」  
         Uコリント4:3〜6 (三浦真信牧師)


<3節>
パウロは、神がキリストを通して与えてくださった福音を明らかにすることに努めてきましたが、なお古い契約に固執する律法学者たちの心にはおおいが掛かっていました。
パウロは決して彼らが皆滅びると思っていたわけではなく、むしろ彼らのおおいが取り除かれて救われることを願っていました。
おおいがかかっている時には、十字架の言葉は愚かなものと思われてしまうのです(Tコリント1:18)。
罪なき神の子キリストが十字架で死なれ三日目によみがえられた出来事は、信じる人には何度聞いても嬉しく神の力を受けますが、信じない人たちにとっては、愚かな出来事にしか思えないのです。
しかしパウロ自身もかつては心におおいがかけられていて、神のためと思いながらキリストを迫害していました。
でもキリストが一方的に触れてくださって、その心のおおいが取り除かれ、キリストの驚くべき光により、キリストを宣べ伝える者に変えられたのです。
ですから、今パウロに反対して彼の語る福音に反発している律法主義者たちも、いつかそのおおいが取り除かれて、福音による解放を受けると信じることができたのでしょう。

<4節>
「おおいが掛かっている」という状態は、「この世の神が不信者の思いをくらませている」のだとパウロは語ります。
神は唯一ですから他の神がいるわけでなく、この世の支配者である悪魔のことをさしています(ヨハネ福音書12:31)。
やがては完全に神のさばきのもとに滅ぼされる悪魔が、あえて今この世での活動をゆるされて人々の思いをくらませているのです。
この世の心遣いや欲で人々の心をいっぱいにして、み言葉をふさいでいるのです(マタイ13: 22)。
サタンは、「神のかたちであるキリスト」(コロサイ1:15)を信じないように、人々の思いをくらませているのです。
しかし神でありながら人として世に来られたキリストこそ、私たちの罪を完全に贖うことができるのです。
そして私たちを「栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えて」(3:18)くださるのです。
この「栄光にかかわる福音の光」を輝かせないように、人々の心におおいが掛けられているのです。

<5節>
パウロは、自分のことを推薦したりアピールしようとしているわけではありません。
ただ「主なるキリスト」を知ってほしいだけなのです。
自分が批判されるだけなら一向に構わないけど、そのことで宣べ伝えているキリストが軽んじられることは辛いことでした。
一部の人から非難されているように、パウロはコリント教会を支配しようとしているどころか、「イエスのためにあなたがたに仕えるしもべ」であることを伝えます。
それはどこまでも「「イエスのため」であって、ただ人間の奴隷になることではありません(Tコリント7:23)。
キリストに仕えるゆえに、人々に仕え、キリストを一人でも多くの人に知らせたくて、その人の目線に喜んで合わせることができたのです(Tコリント9:19〜23)。

<6節>
この世にまだ暗闇しかなかった時に、神が「光があれ」とおっしゃると、光が輝きました(創世記1:3)。
神は闇の中に光を造り出すことがおできになるのです。
どんなにサタンが人々の思いをくらませていても、神が一言「光よあれ」とおっしゃれば、心のおおいは取り除かれて、「神の栄光を知る知識」が光輝くのです。
福音に心閉ざされている人々の心をも、神が「光がやみの中から輝き出よ」とおっしゃれば、その心のおおいは取り除かれるのです。
パウロは、自分自身がクリスチャンを迫害している真っ只中でキリストに出会い、キリストの驚くべき光の中に招かれて人生が変えられた経験から、確信をもってそのように言うことができたのでしょう。
このキリストの光を鮮やかに見せるために、神はあえて暗闇を歩む時を許しておられることもあります。
しかしその最終目的は、キリストの光を受けて、神の栄光をほめたたえるようになることです。
キリストの光が照り輝き続けるためには、どこまでも福音に留まり続ける必要があります。
自分の力や行いでは救いを得ることは不可能であることを認めて、すべての人の罪に代わって十字架で死なれたキリストだけが、私を罪から救う力があることを信じていくときに、光は輝き続けるのです。
自分の力で勝ち取った救いではなく、キリストの一方的な恵みによって与えられた救いだから、私たちは自分自身について宣べ伝えることはないのです。
このすばらしい救いを成し遂げてくださったキリストを私の誇りとして伝え、キリストに仕えるゆえに人々に仕えていくだけです。

サタンは常に私たちの行いに目を向けさせようとしています。
しかし神は私たちにキリストを信じる信仰を求めています(行いは信じた結果ついてくるのです)。
生活の只中で、キリストを信じ、キリストに頼り、キリストを主として崇めて生きていくことを求めておられるのです。
どんなに社会や取り巻く環境が暗闇におおわれていても、キリストを信じていく限り、この光が消えることはありません。
悪魔がどんなに吠え猛っても、キリストを信じる者から、神が輝かせてくださった福音の光を消すことはできないのです。
キリストの十字架により、神は完全に悪魔に勝利してくださいました。
キリストの十字架の血潮だけが私の罪をきよめることを信じていきましょう。
そのたびに、神の力が心から湧きあがってくることでしょう。




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 9月5日
主題:  「勇気を与える神のあわれみ」 
               Uコリント4:1〜2 (三浦真信牧師)

<1節>
「こういうわけで、私たちはあわれみを受けてこの務めに任じられている」と、パウロがキリストの十字架の贖いによって新しい契約に仕える者となったことは、どこまでも神のあわれみでした。
新しい契約そのものが、神のあわれみが先行しています。
私たちは、律法を行うことによって神の民とされるのではなく、むしろ律法によって自分の罪を認めて、キリストの十字架によって贖われたことを信じることで、救われるのです。
それは、ただ神のあわれみなのです。
パウロは、そのキリストをかつて率先して迫害していたのに、神のあわれみによってキリストにとらえられ、キリストの福音を伝える者に変えられたのです。
その「神のあわれみ」が、パウロに「勇気」を与え続けたのです。
コリント教会で律法主義を強調する人々から、「パウロは使徒としてふさわしくない」 「自分たちを支配しようと企んでいる」などと批判されながらも、パウロは勇気を失いませんでした。
それは神のあわれみが、パウロに勇気を与えたからです。
決してパウロは、人から批判されても何とも思わない図太い人ではなかったようです。
この手紙の中にも、繊細なパウロの心が随所に現れています。
恐らく彼らの中傷を耳にすれば、落ち込むこともあったでしょう。
でもそこでまた神のあわれみを思い起こして立ち上がらされていったのです。
「勇気を失う」(エンカケオー)は、「失望する」という意味もあります。
新約聖書で 他にもこのエンカケオーが使われています。

@ルカ18:1(失望する)

イエス様は、失望しそうになる時、失望することを選択せずに、祈るという行動を選択するように命じておられます。
不正な裁判官に公正な裁判をするように日夜訴え続けたやもめのように、あきらめず、しぶとく祈り続けることが、勇気を失わない秘訣です。

Aガラテヤ6:9(飽く)
善を行っても、なかなか良い実が見られないことがあります。
悪を行っている方が得のように思えることもあります。
しかし失望することなく善を行い続けるなら、必ず実を刈り取る時がくるのです。

BUコリント4:16(勇気を失う)

肉体の衰えを感じると、勇気を失い、失望したり無気力になることがあります。
しかし「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている」という事実に目を向けましょう。
外なる人は、いずれは完全に失せるものです。
そこにとらわれて失望することは、無意味なことです。
日々キリストにあって新たにされている内なる人を喜んでいきましょう。

パウロは、みことばの勧めと神の具体的なあわれみにより、失望しそうな環境に取り囲まれながらも、日々勇気を与えられて、新しい契約に仕えていくことができたのです。

<2節>

「恥ずべき隠されたことを捨て」

これは特にパウロに反対して、コリント教会に福音とは異なった教えを持ち込んだ人たちがしていたことを、意識していたのでしょう。
彼らは、人を騙したり、隠れた場所で平気でパウロのことを中傷し、パウロが語る福音に人々が耳をかさなくなるようにしたのです。
隠された恥ずべきことも、神はご存知です。
また彼らの陰で語る恥ずべきことを不快な思いで聞いた人たちもいたことでしょう。

「悪巧みに歩まず」
自分たちの利己的目的を遂行するためなら手段を選ばないという彼らのやり方は、正に悪巧みで歩んでいたことになります。
悪巧みは、悪魔の本質です(11:3)。
悪魔は、人を神のことばから引き離すためなら手段を選びません。
そのだましの手口は、キリストの使徒や光の御使いにさえ変装するほどです(11:13〜15)。
パウロは、偽教師たちがしているような、陰で人を陥れたり、悪巧みに歩むようなことはしないよう心がけていたのです。
そしてパウロに反対する律法主義者たちのように、「神のことばを曲げて」福音の恵みをすり替えることなく、神が今私たちに生きるように求めておられる「真理を明らかに」しながら、「すべての人の良心に」対して、真実を示してきたのです。
人の考えや、人間の情に左右されることなく、神の言葉の真理はどこにあるかにしっかり焦点を合わせ、その真理を明らかにしていくことに努めながら、パウロは使徒として誠実に歩んできたのです。
パウロは自分を弁護するためではなく、自分たちが伝える福音がそしられ、宣べ伝えているキリストが軽んじられることがないように願って、あえて自分の生き方を説明したのです。
様々な中傷を受けながらも、パウロは反対者たちに復讐したり、悪巧みに歩むことなく、誠実であるように努めました。
それは、パウロ自身が神のあわれみを受けていたからです。
神のあわれみは、私たちが失望しそうになる時も、勇気と希望を与えるものです。
パウロが、見当違いな批判を受けてガックリした時も、 神のあわれみを思うと、また力が湧いてきたことでしょう。
神は、パウロの弱さや過去の失敗もすべてご存知で、パウロを一方的に救い、使徒に召してくださったのです。
その事実があるから、悪をもって悪に報いる必要はありませんでした(ローマ12:21)。
失望しそうになっても神に祈り、神から慰めと勇気を与えられて、また立ち上がっていったのです。
神のあわれみにしっかり心の目を向けていくことが、勇気を失わない秘訣です。
パウロに日々勇気を与えた主イエスは、今も私たち一人一人に、その大きなあわれみを示し続けて、勇気と力を与えてくださっているのです。
毎週神を礼拝することで、神のあわれみを受けて力をいただいているのです。
毎日の神との交わりの中で、知らず知らずのうちに神のあわれみが私たちを力づけているのです。
罪にまみれ救われるに価しない者を、あえて選び、神の救いの中に招き入れて下さった神のあわれみが、私たちに勇気を与えるのです。
失望しそうになったとき、神のあわれみを深く思うことに集中してみましょう。
必ず勇気が湧いてきます。




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