「実行するためのみことば」 列王記第2 23章
<1~3節>
生ける神への信仰を建て直すため、ヨシヤ王は、偶像崇拝によって荒れ果てた神殿を改修しようとしました。その最中に律法の書(みことば)が発見されたことにより(22:8)、彼の改革がまだ不完全であることを知りました。
そこで、全住民に契約の書(律法の書)を読み聞かせ、その契約のみことばを実行することを誓い、民たちもこの契約に加わります。
<4~23節>
ヨシヤ王は、人々の心を主から引き離す偶像を、徹底的に取り除きました。イスラエルはこれまで、偶像によって主の道から絶えず逸れて行きました。サタンは、私たちに主以外のものを慕い求めさせ、それによって心を支配することで、生ける神から引き離そうとしています。
「偶像を警戒しなさい」(Ⅰヨハネ5:21)とヨハネも命じています。 拝金主義(Ⅰテモテ6:10、17~18)、世の栄華や誉れ(マタイ4:8~10)、快楽や思い煩い(ルカ8:14、Ⅱテモテ3:4、ヤコブ5:5)などの形で、サタンは、今も私たちの心を虜にしようとしています。
聖霊に、自分の偶像が何かを気づかせていただき、その偶像を取り除いていただきましょう(エゼキエル36:25~27)。 神との関係が曇っているなら、何かが偶像になっているはずです。
<24~25節>
ヨシヤ王は、どこまでも主のことばに従おうとしました。主のことばを実行するために、霊媒、口寄せ、テラフィム(家の守り神のような偶像)、などを除き去りました。
このように、主に立ち返るのと、主のみことばを実行するのは一つなのです。
「主に立ち返ったけれど、主のことばを実行するのはどうでもいい」ということはありえません。100パーセント実行するのは不可能ですが、それでも、愛する主のことばに従って生きたいと願い求めるようになるのです。
<26~27節>
様々な外圧はありましたが、主のみことばへのヨシヤ王の忠実な歩みにより、この時代には南ユダに主の平安が戻ってきました。
しかし、やがてこの国が亡びることに変更はありませんでした。ヨシヤ王の祖父のマナセが、主の宮に偶像を安置し、主を侮った罪のためです。
<28~37節>
アッシリヤの首都ニネベが紀元前612年に滅亡した後に、バビロニヤが強くなるのを恐れたエジプト王パロ・ネコ(ネコ2世)は、アッシリヤの最後の王(アッシュート・ウバリト2世)がカランの地をバビロニヤから奪回するのを助けるため、パレスチナを通って北上しようとしました。
ヨシヤ王は、パロ・ネコの北上を阻止しようとして出陣し、メギドで戦死します。 ヨシヤの死後、その子エホアハズが王となりますが、彼は主の前に悪を行い、パロ・ネコに捕えられてエジプトで死にます。その後パロ・ネコは、エホアハズの子エホヤキムを王としました。
(まとめ)
ヨシヤが南ユダの王であった31年間(22:1)に、周辺諸国とのせめぎ合いは絶えずありましたが、律法の書が発見されて、主のことばが国の土台となり、霊的に回復されていきました。
けれども、その回復も、次の世代にまで及ぶことはありませんでした。
ヨシヤ自身は、主のことばを尊び、主のことばに従い、国全体が主のことばを土台として歩めるように求めました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてモーセのすべての律法に」従おうとしたのです(25節)。
主に立ち返るとは、主のみことばで生きようと決心することです。 みことばを実行して生きたいと願うことです。そして、自分自身がみことばで生きることは、また次の世代にも影響を与えます。
主のことばに対して、「このことに関してはなかなか従えない」という具体的な弱さを示されたら、それを認めましょう。 自分では気づかずに、人から指摘された不従順があれば、それも認めましょう。
律法の書が発見されて、ヨシヤ王がいかに自分たちの歩みがみことばから逸れていたかに気づいたところから、変革が始まって行きました。 わたしたちも、みことばからいかにはずれているかを認めて、みことばを実行する者へと、聖霊に変えていただきましょう。