「刑罰と赦し」 T列王記2:13〜46
ダビデの時代から問題があり、ダビデとしては心入れ替える猶予を与えていた人たちに対して、ついに処罰がくだされます。
ここは、決してソロモンの専制君主を伝えているのではなく、ある意味では当時の王としてこれまで見逃してきたことを、はっきり当時の社会基準で裁いたという箇所でもあります。
13〜25節
1章でダビデがまだ王であるときに、支持者を集めて自ら王になろうとしたアドニヤが、ソロモン新王の母バテ・シェバのもとにきます。
アドニヤは、「生存しているダビデの息子の中では自分が長男であり、またイスラエルの人々も自分が王になることを期待していたのに、主が弟のソロモンに王位を与えてしまった」と不服そうにバテ・シェバに伝えます(15節)。
決してイスラエルの民たちがアドニヤが王になることを期待していたわけではないにもかかわらず(わずかな支持者はいましたが)、アドニヤは自分が王になるべきであったとまだ思っているのでした。
「この可愛そうな自分のために、今一度願いを聞いて欲しい」とバテシェバに依頼したことは、ダビデの晩年に王の世話係として仕えたアビシャグを妻とすることをソロモン王に頼んで欲しいということでした。
バテシェバは、この願いを聞き入れ、ソロモンにその旨を伝えます。それに対して、ソロモン王は、アドニヤが反省などしておらず、また別の形で王権を奪おうと企んでいることをすぐに察します。
そして前回は見逃して反省の機会を与えましたが、今回は部下のベナヤを遣わして、アドニヤを打ち取りました。
26〜27節
ただしアドニヤの反逆に加担した祭司エブヤタル(1:7)は、本来なら処刑されてもおかしくない罪を犯しましたが、祭司職を罷免されるだけで赦されました。
それはエブヤタルが、それほど強い反逆心をもってアドニヤを支持したわけではないことや、エブヤタルがダビデと苦しみを共にしてきたことを知っていたからです。
28〜35節
アドニヤが処刑されたことを聞き、ヨアブは自分も同じように裁きを受けると思って逃げました。
ダビデの時代から、ヨアブは王の意志を無視して二人の将軍を虐殺したり、謀反を起こしたダビデの息子アブシャロムを、生け捕りにするよう命じられていたにもかかわらず殺してしまい、そしてアドニヤの反乱をも支持していきました。
ダビデの時代には、それでもどうにもできないままでいましたが、ダビデ自身も遺言の中で、ヨアブに関してはいずれ示しをつけなければならないことを伝えています。
ここにいたって、ソロモンはヨアブをも打ち取り、新しくベナヤを軍団長に、ツアドクを祭司に立てました。
36〜46節
最後に、やはりダビデの遺言にも名が挙がっていたシムイにも、裁きがくだされます。
ダビデがアブシャロムに追われて荒野をさすらっている時に、シムイはダビデを呪いながら石を投げつけて後をついていきました。
ダビデは、シムイのしたことを赦し、王としてエルサレムに戻った時にも、決して彼を罰しませんでした。
しかしシムイの中にも、ダビデ王権に対する反逆的な思いがあることは分かっていましたので、ソロモンはシムイを監視できるエルサレムに留まらせ、そこから出たときには処刑となることを伝え、シムイもそれを承諾します。
その約束を守る限りでは、シムイもエルサレムで平穏無事に生活することができました。
しかし3年後に、理由はあったにせよ、シムイはその約束を破ってエルサレムを出てしまい、約束どおり打ち取られます。
この2章では、ダビデの時代に本来なら国として刑罰を与えるべきなのに、様々な事情でそうできなかったことを、結果としてソロモンの代になってくだされたことが記されています。
ダビデもソロモンも、一度は罪を犯した者たちを赦し、反省の機会を与えました。
王のあわれみで赦されたことを彼らも知っていながら、結局それを感謝することもなく、「苦い根」を持ち続けたままでいました。
その「苦い根」があることを認めず、またその自分の中にある問題に目を向けず、どこまでも人を問題にしていきました。
私たちも、自分の罪が死に価すること、滅びがふさわしい者であることを心から認めているなら、イエス様の身代わりの死によって、滅びからいのちに移されたことが何とありがたいことかと思えることでしょう(Tヨハネ3:14)。
また祭司エブヤタルが「死に価する者」であるにもかかわらずあわれみで赦されたように(26節)、神の大きなあわれみで赦され救われたことは、感謝なことなのです(エペソ2:3〜5、Tペテロ1:3、2:10)。
罪に対しては、刑罰が伴うのは当然のことです。
犯罪を犯せば、その国の法律によって皆裁かれます。
人を造られた神の御前では、すべての人はアダムの時依頼生まれながらに罪をもっており、皆死罪にあたるのです(ローマ5:12)。
しかし神の子キリストが私たちの受けるべき刑罰を、代わりに十字架で受けて死んでくださいました。
このキリストの行為により、すべての人にいのちを受けるチャンスが与えられたのです(ローマ5:17〜18)。
この神のあわれみを受けた者として、どこまでも神の恵みに留まり続けていきましょう。